同じ空の下で


 むさくるしい猛暑が続いている夏休み最後の日。窓を開けた外からセミの声が鬱陶しいほど喚き散らしている。いい加減どうにかしてほしいとうんざりする。
 窓を開けても暑いし、クーラーをつけようにも無いものはどうしようもない。扇風機はあの身体のくすぐったさが嫌で部屋には置いていない。ワガママとかいうな!
「この夏が本番だ!」とどこの学校でも言ってそうな台詞がうちの担任にも用いられ(そのせいではないのだが)、今こうやって机に向かい、英語の問題集を開いている。開いてはいるものの、この暑さとダルさが絡みあった……これを一言でなんと言おうか。ともかく受験生にしか分からないような現象が私にも起こっていて、どうにもこうにも問題が頭に入ってこない。シャーペンを指でクルクル回しながらとりあえず問題を解いてみる。
「えーっと……、When I have learned a thousand English words, shall I be able to read an English newspaper? の英訳か。んー、これは現在完了だったっけ。私が……英単語を1000個覚えた時、私は英語の新聞を読めるようになるでしょうか? ってね。……そんなん無理に決まってんじゃん。何言ってんの、この問題集!」
 暑さのあまり問題集にまでやつあたりをする。うぅ、我ながら情けない。そもそも自分の訳につっこんでる時点でもう駄目っぽい。
「ふぅ、疲れたなぁ。ジュースでも買ってこよっ」
 一問しか解いた形跡がないが、でも一応やったんだからいいよね。
 と、自分に甘い私は財布をつかんで飛び出していく。
 外は相変わらず暑かったけど、雲一つない空はなんだかとても輝いて見えた。

 私は風見柚栗(かざみゆに)。ちょっと変わった名前だけど、私立高校に通うただ今受験生真っ只中の普通の女の子だ。
 背は低くて、髪はショート。長いのはうっとうしいので小学校からずっとこのままだ。友達から「伸ばしてみたら?」とか言われたこともあるが、特にオシャレを気にしている訳でもないし、やっぱり長いのは似合わないから……という理由で短くしている。結構大雑把な性格な為、格好もそんな、いかにも『女の子』みたいな格好はしていない。別に着れたら何でもいいや、という思考を持ち合わせているため、要するに考え方がオヤジなのだろう。いいすぎかな? これ以上はなんか私自身を疑われそうだから止めておくが、今はTシャツにGパンというラフな格好でジュースを買いに出かけている。というか、ジュース買うためだけに格好なんてどうでもいいと思うけど。
 そんな私であるが、学校では成績、運動神経抜群! ……などという美少女などではない。成績は中の下、運動神経もまぁ、中の上と言ったところ。言われる『中途半端』とかいうやつだ。
 特に行きたい大学も無ければ、やりたい事もない。それならどうして私立に入ったのかというとやはり理由などは無い。んー、やっぱりあるとすれば幼馴染みの吉村大輔が誘ってくれたのが一番の原因なのだが。あ、幼馴染みって言っても普通の友達で、唯一小学校から高校まで一緒に進学してきた、いわゆる腐れ縁ってやつだ。だから私も男として意識したことはない。向こうもないに決まってる。だから友達としては良い感じだと思うのね。
 でも、この私立に入ったおかげで私は転機を迎えた。3年生になってから、同じクラスの前田厚志君って人が超がつくほどカッコイイのだ。有名国公立を目指す容姿端麗、成績、運動神経抜群という稀にみる超完璧な男子。私は彼に一目惚れをしたのである。
 この間思いきって話しかけたら、意外に話しやすくてビックリだったよ。会話中もなんだかもう心臓がドキドキしたりして。それからは私も何度か話すようになったし、彼からもたまに話しかけてくるようになった。そのおかげで今は幸せいっぱいなんだけど、いかんせん受験っていう大きな壁があったのを忘れていた。彼は有名国公立を目指しているのに私はまだ何も決めていない。一応私立で決めようと思っているんだけど厚志君と別れたくないなぁ、って想いもあるのだが……でも現実は厳しくて、国公立なんて私の頭じゃ今からは到底無理だと、担任からも言われたし。
 どうしよっかなー、と考えているうちに自動販売機が見えた。と、その隣にはよく見かけた姿が。
「あ、柚栗じゃねーか。どうしたんだ?」
 吉村大輔。先ほど述べたように私の幼馴染みである。背が高いのが彼の自慢だと親は言うらしい(親バカ)。まぁ小学、中学、そして高校に入ってまでバスケをしていたのだから、これで伸びないはずはないだろう。これでもって顔も結構かっこいいから女の子が黙っているはずもない。しかし今まで彼は事あるごとに女の子を振り続けてきたのだが。理由を聞いても……
「他に好きな女がいるからな」
 とずっとこの一点張り。中学校から言い続けているけど、本当に誰なんだろうかと思う。ま、無理強いはしないけどね。
 私は大輔にやる気がなくてジュースを買いに来た、と言ったら大輔は笑いながら「俺もだ」と返してくれた。
 やっぱり受験っていうのは受験生の敵で、すっごい面倒くさいんだけど合格すれば残りの人生華だらけ! とか誰かが言ってたっけ。胡散臭いなぁ……。
 こんな事言ってるからどんどんやる気が萎える訳だけど、一回考え出したら何だか思考が押さえられない。そういうことよくあるでしょ?
「おーい、柚栗ー? 変な顔してんぞー」 
 ぼーっとしていたのか、大輔が笑いながら私に言った。気づいた私は大輔に悪態をついてやった。ぶー、どうせ変な顔ですよー。
 オレンジジュースを飲みながら大輔と二人、腰を下ろして空を仰ぐ。やはり雲は出ていなかった。
 この空の下で、何人の受験生がいるのだろうか。
 私と大輔はこの空の下で、幼馴染みに、そして友達になった。
 こんな平凡な生活してるけど、人生を歩んでいくとまた新たな出会いがあるんだろうなぁ。
 などと、またもぼーっとしているのを指摘する大輔。あー、今いいところだったのに。
 でものんびりするって事はいいことだと思う。
 多分、受験生じゃなかったらこんなにのんびりしていないだろうし。
 受験生だからこそ、こうした心のゆとりが必要であって、例え明日がテストだろうと部屋の掃除をしたくなったり、買い物に行きたくなったり。
 言っていることがなんだか矛盾しているように聞こえるが、かと言って腰を上げる気にもならない。
 私の座っている場所は、日陰に座っているせいか、風が涼しかった。
 あ、なんか眠たくなってきちゃった……。私はそのまま体を倒しながら瞼を閉じる。
 このまま1年後の未来に連れてってくれないかなぁ。そしたらもう受験なんて終わってるはずだし。
 そんな事を思いながら、私は眠りに落ちていく。


 ……ん。
 私は先ほどのやかましいセミの声や風の音などが消えているのに気づいた。そして横になってる体はひんやりと冷たい。私ははっと目が覚めた。
 闇。
 と、何かの小説にそんな単語がよく出てくるような気がしたが、まさにその『闇』である。
 辺り一面に染まる黒という色が視界から見える全ての物質を遮断する。そして音、という感覚もまるで閉ざされたように何も聞こえない。セミの声はうるさいと思ったが、ここまで何も聞こえないと逆に不気味に思える。
 まるでどこかの防音部屋にでもいれられたような、そんな考えが脳裏をよぎり、私の体は震えた。
 叫んでやろうかと思ったけど、震えのせいか、喉からは掠れ声しか発することができなかった。
 恐れと不気味さが私を支配したその時、私の視界が一転した。
 一面の闇が今度は白く、変化したのである。
 闇とは反転した光、である。
 だが、やはり周りは色が別の一色になっただけで状況が変化したわけではない。つまりは何も見えなかった。
 私は床も天井も見えないこの状況が、まるで自分は浮いているんじゃないかと錯覚したくらいだ。
 どうしようか、という問いも浮かんでこない。ただ私は脅えていた。私はどうなるんだろう、と。子供のように震えているしかできなかったのだ。
「……か?」
 その時、どこからか声が聞こえた。こんな何もない所で誰の声がするというのか、私はとうとう幻聴まで聞こえたのかと自嘲した。
「……大丈夫か?」
 しかし、それは幻聴なんて妄想じみたものではなかった。はっきりと、人間の声が聞こえる。間違いない。
 その声の主を探そうと辺りを見渡すが、声だけでは方向を探すことも難しい。
 それからその声が聞こえなくなった。
 私は再び、孤独による恐怖を感じた。
 私は気が狂いそうになって叫ぶ代わりに目を思いきり閉じた。閉じたら真っ暗になるけど、目の前の現実を見るよりはマシだと思ったのだ。
 しかしそれが私の意識を再び遠ざける。
 あれ……、こんなはずじゃ……。
 思いとは裏腹に、弱りきった心はすぐに快方へと身を委ねていく。
 私はその場で深い眠りに落ちた。
 先ほどの私を案じてくれる声が遠くから聞こえたような気がした。
 
 ……
 …………
 うぅ。
 目覚めは最悪。頭痛がひどい。
 おまけにまだ夕方なのに寝てるわ、普段着で寝てるわで……って、えっ!?
「おかーーーーーーーさん!!!」
 私はベッドから抜け出し、こけそうな勢いで階段を降り、母に詰め寄る。
「あら、どうしたの。もう起きられるの?」
「そうじゃないよ。何で私いつの間に家に戻ってるの?」
 なんか自分で質問して訳がわからないが、お母さんは普通に返してくれた。
「何言ってんの、あんたは。さっき大輔君があんたを運んできてくれてね、聞けば自動販売機の所で寝ちゃったらしいじゃないの。大輔君は起こしても起きない、とか言ってたわよ」
 え!? そんな事があったなんて。あぁ、そういやなんだかうとうとと……。大輔には悪いことしたかなー。ってかもしかして寝顔見られた……?
 ボッ!
 無論、顔が一瞬にして沸騰した効果音である。
「後でちゃんと大輔君にお礼言っておきなさいよ」
 生返事をした後、私は部屋に戻って大輔に電話をした。
『お前うなされてたぜ?』
 どこか引っかかったが、私は答えを出せないまま、
「そんなことよりも、あんた私の寝顔見やがったわね!」 
 私は大輔に罵倒を叫んで電話を切ってやった。
 あー、恥ずかしいなぁ、もう。


 翌日、初めての登校日。いつも通りの時間に起きて、いつも通りに学校へ行く。うん、異常なし。
 頭痛が長引くかと思ったが、一晩寝たらすぐに治った。ま、気にするだけ無駄よね。
「おはよっ、久しぶり〜」
 私は結構早めに学校へ到着するので、遅刻はあまりしない方だ。
 だけど早過ぎるってわけでもないのでこの時間帯になるとまばらにだが、生徒達が教室で談笑をしているか勉強をしている。後者に関してはよくもまぁ、夏休み明けにやってられるのだと感心するが。
「よぉっ、もう大丈夫なのか?」
 私を呼ぶのは大輔。机に座りながら手を振っている。私も軽く手を振って応える。
「うん。昨日はありがとね。私を家まで運んでくれたらしいし」
「あぁ、なんかうなされてるしよ。起こしても起きねぇし、病院連れてこうと思ったくらいだぜ」
 げっ。
 さすがにそれは勘弁して欲しい。
 でも、大輔にはそこまで辛そうな顔に見えたのかなぁ。
 うーん、気をつけなきゃ。何に気をつけるのかはわからないけど。
 そんな風に話をしていると、
「厚志君おひさー」
 と、女の子の声がはっきりと聞こえた。私が振り向くと、そこには私(女子)の憧れ、前田厚志君が登校したのである(ちょっと大げさかも)。
 私が夢見る乙女のように目をキラキラさせていると横槍が入った。
「あーんな奴のどこがいいのかね?」
 むっ、大輔と言えども、聞き捨てならないセリフだ。
「うるさいわね、嫉妬は見苦しいわよ」
「ばっ! んな訳ねぇよ!」
 顔を真っ赤に染める大輔。あらら、図星だったか。誰かは知らないけど。
 こうして大輔や友達と話をしながら、朝の自由時間が過ぎていく。
 今日は始業式だけだから、楽なことこの上ない。
 終わったら何をしようかと考えているといきなり厚志君が立ち上がって私の方に近づいてくる。
 近づくたびに心臓が鳴るようなそんな高揚感。え、なにっ――?
 厚志君は私にだけ聞こえるようにこう言った。
「風見さん、今日始業式終わったら屋上にきてくれないかな? お願いします」
 と、少し頬を染めたように言った後、何事もなかったように行ってしまった。
 私は硬直していた。そしてなぜか大輔聞こえていたのか硬直していた。唖然、という言葉が見事に当てはまる。
 それを考える間もなくチャイムが鳴ったのは幸いというべきか。


 楽しみを待つってことは凄く遠く感じる。それまでにいっぱい自分通りのシナリオや楽しみを頭の中に思い描くのだ。
 だけど、来て欲しくない時間っていうのは意外と早く訪れるものだ。なんでだろうと思いながらも時間は刻一刻と過ぎていく。
 始業式が終わり、ホームルームが終わったところで、そのまま放課となった。
 私はすぐに席を立ち、屋上へ急いだ。
 なーんか誰かの声が聞こえたけど、それどころではない。
 ――なんとかしてこの心臓の高鳴りを紛らわせないと。
 私は一心不乱に走り、屋上へと辿りついた。
「やあ」
 そこには息一つ乱さず、私より先にきていた厚志君がいた。
 いつきたの……?
 そう尋ねようと思ったが、些細なことなのであまり気にしないことにした。
「待ってたよ」
 屋上への呼び出し、そして二人っきり。このシチュエーションは……っ!
 心臓が飛び出しそうなくらい私は緊張していた。どうしようどうしよう。
 顔を真っ赤にしながらも、次の彼の言葉を待つ。しかし、それは私の予想と遥かに違っていたものだった。
「昨日は意識だけだったからね。今度は肉体ごと連れていくよ?」
 ……え?
 一瞬何を言っているか分からなかった。
 しかし伸ばされた手が私の手に触れたとき、何かに導かれるように私と厚志君の体は溶けるように消えていった。


 あ……そう言えば厚志君の声ってどこかで聞いた事があった。
 確か昨日の夢、真っ白い空間の中で私の身を案じてくれる優しい声。
 その声がまた聞こえる。
 目を開けると、そこは再び辺り一面の闇だった。
 だけど、今度は怖くなかった。
 私の手を包み込んでくれる何かがあったから。
「あなたは誰?」
 私は尋ねた。その答えは分かっていたが、どうしても確かめたかったのだ。
「僕は時空を越えてここまでやってきた、異邦人。そして前田厚志でもある」
「じゃ、あなただったのね。昨日、私を呼びかけたのは」
 厚志君はうなずいた。
「ここは時空の狭間。未来や過去の中間にあるような場所だ」
 いきなりそんな話をしてくる厚志君。私が何かをいう前に厚志君は続けた。
「今から君は僕とここで暮らすんだ」
 さすがに私でもこのいきなりすぎる言葉には驚きの声をあげる。
 というか、半ば呆れたような声だ。
「僕は家族がほしいんだ。この時空の狭間では未来と過去の時間の進退の流れが中和してるため、絶対に死ぬことはない。ここで生きてきた僕はもう何千年と歳を重ねてきたが、容姿や体力は一向に減る様子はないんだよ」
 な、何千年!?
 そんな話をすぐに信じろというのが無理だというのだが、とても嘘をついているようには見えなかった。
 私は話の先を促した。
「そんなある日、僕ともう一人時空を越えられる人間を見つけたんだ。それが君、風見柚栗だよ」
 はっきり言おう。
 私は自分の頭が壊れたんじゃないかと思った。
 理解ができない、というのではない。でも、いきなり私が過去や未来へ行ける、という非現実的な事をどうやったら信じようか。そして、そのもう一人の異邦人とやらがなぜ私なのか。
 私の苦悩をそのままに、厚志君は更に続ける。
「君はある日、時空の狭間からどこかへと消失したんだ。突然外部へと出てしまったため、時空を越えるなどという普通では考える事のない思考を喪失してしまっているんだ」
 つまりこういう事だと思う。
 私は元々時空を越える異邦人で、何かの拍子に時空を抜けて今の家庭へと降り立った。
 家族の事情はどうにかなったとして、私はそのせいで時空の中での記憶が全部失われた。
 その事実を知った異邦人の厚志君は私を連れ戻そうと何千年と時を重ね、ようやく今、私を見つけ出した。
 そして私をこの場に連れて、私と同じ異邦人同士、共に暮らそうと言っているのだ。
「どうして……?」
 私はそんな事しか言えなかった。
「僕達異邦人は、異邦人としての適地がある。それだけだ。君はこの場所でしか生きられないんだよ」
「なんでそう思うの?」
 私は段々声が震えているのを感じていた。もうそれ以上、時空やらなんやら言うのを止めて欲しい。そんな冗談、言うもんじゃないよ。しかもこんなどこかも分からないところで。
 私はもしかしたら、既にこの事実を信じてしまっているのかもしれなかった。
「君は蟻と人間が共に生存する事が可能だと思うのか?」
「それとは話がちが……」
「同じさ。姿形が同じでも結局流れる血が違うんだよ」
「……でも、私は今の生活で何の文句も出てこないし、むしろ楽しくやっているんだよ。そんな人生を捨てるような行為はできない」
 私がこういうと、厚志君は何がおかしいのか、口元を歪めて笑い始めた。
「ははははっ……、残念ながら、君の命は後少しだよ」
「え――?」
 私は瞬間、目の前のものを凝視するかのように動きが止まってしまった。。
 絶句とかそんな生易しいものではない。息が止まるかと思ったくらいだ。
 そんな数少ない言葉でどうやって私を何度も驚かせるのだろう。私は死の宣告を受けたのだ。
「君はあまりにも向こうの世界で長生きしすぎた。間もなくその身は滅びてしまうだろうね。1年、2年……少なくとも5年以内には確実に」
 信憑性は全くと言っていいほどない。しかし、この背筋が凍る緊張感のようなものはなんだろう。
 なんだか、彼の目を見ていると嘘だ、ということが言いきれない。どうしてなの?
 この時初めて私は彼を怖い、と思った。

「でも……」
 厚志君が訝しそうな表情をする。私は怯むことなく言葉を発した。
「でも、それでも私は今の生活に戻りたい」
「へえ。君は死が怖くないのか?」
「どうせ人間ってのはいつかは死ぬの。それがちょっと短くなっただけじゃない」
 全然ちょっとではないが、敢えて気にしない。
 今の生活を、家族を、友達を失いたくない。こんな闇しかない所で不老不死になっても全然嬉しくない。
「そうか」
 てっきりまだ言ってくるのかと思ったが、厚志君は手をあごの方へ持っていき、何やら考え出した。
「無理矢理納得させる方法もあるが、それでは僕が納得しない」
 どうやら厚志君はフェミニストらしい。
 いや、そんな事はどうでもいい。せっかくこう言ってくれているんだから私も何か言わないと。
「じゃ、じゃあさ。厚志君、何か条件出してよ。それをクリアすれば解放ってことで」
 何気なく言った一言が、私の誤算だった。厚志君は再び口元を歪め、ニヤニヤした表情で、
「そうだな。それじゃそうしよう」
 私は何でもやる気だった。何を、と聞かれれば答えに困るが、『死ね』と言われること以外なら何でもやってやる覚悟だった。
 だが、厚志君から発したセリフは、私の想像と遥かにかけ離れたものであった。
「……吉村大輔と、キスするってのはどうかな?」
 キス!?
 つまり、接吻である。
 今の時代、そんな単語一つで驚く事ではないとは思うが事態が事態なだけに私はまたも絶句してしまった。
 今日は驚きの連続である。もちろん、それは非現実的なことで。
「そ、そんな事っ」
「嫌、とは認めないよ。さっき君が言った通りに条件を出しただけなんだけど?」
 厚志君は名案とばかりにさっきからニヤニヤしっぱなしだ。
 この意地悪……
「だって私は――っ!」
「私は……なに?」
 厚志君が好き。
 そう言おうと思った。
 だけど、状況がまるっきり変わった今、素直に彼を好きだと言えるのか?
 なんだか気持ちが曖昧になっている。
 彼への想いはそんなものだったのか、と言われれば言葉に詰まってしまう。そんなことはない、ないんだけど。
 厚志君を見てると、怖く感じるのだ。これが本当の彼の姿なら、本当に好きだとは言えない……思う。
 だけど大輔とキスだなんて。
 どうしてそんな条件を出すのよーーーー!
「まぁ、無理だったら構わないけど。じゃあ条件はキス。期日は1週間ってところでどう?」
 私は半ば、厚志君を睨みながら、
「い、いいわ。」
 ほとんどやけくそ気味に答えた。
 キスなんて無理矢理奪っちゃえば済む話だし。できたらやりたくないけど。……ファーストキスになるわけだし。
「あぁ、そうそう、キスは相手との合意でのキスが条件だからね。無理矢理奪うなんて、そんな獣じみた事はやめて欲しい」
 すっかり読まれている。ていうか獣ってあんた……。
「よーし、やってやろうじゃないの! 大輔でしょ、あの単細胞で間抜けで頭悪くてちょっとカッコイイからって背が高くてたまに優しくて……」
 あれ?
 大輔を罵倒してると思ったらなんで誉めてるんだろう。
「随分誉めるね。これは脈ありかな?」
「うっさいわね! そうと決まったら早く戻しなさいよ!」
「あはは、ごめんごめん。じゃ元の世界へ戻ろうか」
 私はなぜかまた心臓の鼓動が速くなり始めているのに気づいた。さっきまでは冷め切っていたのに。
 意識なんてしたことなかったから?
 違う。
 大輔は本当はいつも私の近くにいたんだ。
 気づかなかっただけかもしれない。あまりにも近くにいすぎて。
 でも、大輔はどうなんだろうか。
 私は大輔を初めて男として意識し始めた。
 私はやがて厚志君と共に再び溶けるように消えていく。
 手は触れていたが、先ほどのように暖かくは感じられなかった。


 戻ってきたのは先ほどと同じ場所の屋上。
「時空の狭間にいたから時間はさっきと全く変化していない。さぁ、彼と話すなりなんなりした方がいいんじゃない?」
「言われなくても分かってます!」
 私は彼を睨んだ後、屋上を後にした。
 階段を降り、自分の教室へと戻る。大輔がいた。
「大輔っ!」
 私は慌てたように駆け寄る。大輔は驚いたようにこちらを見つめる。
「どうしたんだ? そんなに慌てて」
 私は肩で息をする。元々体力はないほうなので、これだけ走っただけでも相当疲れるのだ。
「えっとね……、そう、あれよ。私と付き合って! あ、これじゃなんか語弊が。あぁ、つまりね。私と恋人同士になってほしいの!」
 疲れていたせいだろうか、そんな言葉がどんどん出てきた。しかも大声で。
 言った後で、自分が何を言ったのか確実に知る羽目になった。
 周りを見渡すと、残って話をしていた生徒達の談笑の響きから一転、この私の一言で静まり返っているではないか。
「あ、あはは……。だ、大輔! 逃げるよっ!」
 目が点になっていた大輔を引っ張るようにして私は教室を飛び出した。
 顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。湯気でも立ちそうなほど熱い。
 うわー、はずかし! 何でそんなこと簡単に言えちゃうのよぉっ!
 

「はー、はー」
 さすがに今日は走りすぎたと思う。
「びっくりさせるなよな。マジで驚いたぜ」
 そりゃそうだ。いきなり呼ばれたと思えばそれが告白だったんだから。
 さすがにまずいかと思ったら、大輔は急に真剣な表情で、
「あー、あのな。さっきの事だけど」
 きた!
 私の告白の答えである。
 これで無理だとか言われたらもうその時点でおしまい。私は厚志君に連れて行かれる事になる。
 っていうかもうちょっとムードっていうもんがあるでしょうが、私は。
 厚志君があんな事言ったから焦って、焦って、焦った結果があれである。なんとも情けない。
 あー、バカだな、私。これで大輔ともお別れだっていうのに。
「いいよ」
 大輔、私はもしかしたら昔からあんたの事が……って
「えっ?」
 私は思わず間抜けな声をあげる。今、なんて言いました?
「だからいいよ、って。付き合うんだろ? 俺と」
「な、なんで……?」
 予想外の答えだった。大輔が私を受け入れる理由などないはずである。
 あるとすれば一つしかない。
「なんでって、そりゃ……俺も、お前のことが……好き……だからな」
 最後の方は呟くように言ったが、それだけで十分だった。
 大輔が私を好き。
 そんな事があるはずないと思う自分がいる。
 だって大輔は昔から私をいじめたり、余計なちょっかいをかけてきたりしてきた。
 でも、それはよく言われる『男が好きな女の子にするいじめ』だったのかもしれない。
 高校になってからの大輔は心も体も成長したのか、何かと世話を焼いてくれたりする、そんな優しさが満ち溢れていた。
 私はそんな彼が、好きだった。
 だけどそれは友達、という関係の間のことである。
 近づきすぎて分からない心があっただけかもしれない。
 それならば……今は?
 本当のところは分からない。今はまだ、厚志君の条件を克服するためだけに大輔に告白したに過ぎない。
 大輔は誠意をもって答えてくれたのに。
 なんだか私は、自分が凄く醜い人間に思えた。


 それから私達は一週間、いつも一緒に行動した。
 一緒に登校したり、教室で一緒に喋ったり、勉強を教えあったり、放課後一緒に帰りながら商店街に寄って遊んだり……私の気持ちは未だ歪んだままだったけど、本当に楽しい時間を過ごした。すごく有意義で、二人でする事の大切さと面白さ。それを大輔と共に味わった。こんな二人三脚も良いかもしれない、と思える自分がいる。
 私の心はどんどん大輔で膨れ上がっていった。
 だけど、私のわだかまりは完全に消えていない。
 どうしてなんだろう。私は大輔が好きなのに。
 私は……最低な女だ。


 厚志君から条件を出されてから1週間。つまり今日が最後の日だ
 私はこの1週間、大輔とこんな形でだけど、付き合っていてとっても楽しかった。
 私の奥底に醜い部分があったとしても、その気持ちだけは確かだ。
 私は、今日大輔とキスを交わす。
 嫌でも胸の高鳴りは止まらなかった。
 空は赤く染まり、間もなく夜が訪れる。
 私達は誰もいない公園のベンチに座っていた。
 これは俗に言う良い雰囲気というやつかもしれない。
 私も、大輔もお互い黙ってどちらかが話すのを待つ。
 一触即発、というと例えが悪いが似たような状況ではある。
 私はひたすら待った。やっぱり女の子としては自分からするより、相手からされた方が何だか嬉しい。まぁ、告白は私からだが。
 同じように育った二人。いつしか私達は男と女になっていた。
 だから私は彼に身を委ねた。
 それが合図となったのか、大輔は私の肩を抱く。
 言葉はいらない。それがどういう行為に繋がるかお互いに知っているから。
 私は瞳を閉じた。
 大輔の顔が近づき――


「お前、俺の事本気で好きじゃねぇだろ?」
 ……え…………?
 私が瞳を開けると、大輔は顔こそ近づいてはいたものの、キスまでには到達していなかった。
「どうして……?」
 私が泣きそうな声で聞く。
 大輔は顔を遠ざけて、私に言った。
「どうして、かな? なんとなく分かるんだよ。俺の事好きだとは思うんだけど、想いってのかな? お前の『好き』、って想いが俺に伝わってこないんだよ。なんか自分で言っててよくわからんが……わかるか?」
 分かっていた。
 大輔の言う通りである。私は大輔が好きだ。だけど、やっぱりこのまま付き合って大輔が言ってくれた『好き』というくらいの気持ちの『好き』を果たして私が持っているのか。こんな迷いがある中途半端な気持ちで彼を好きになんてなれない、分かっていたことだった。
 それに、私は厚志君が本当はあんな人じゃなくて、やっぱり普通の人だって事を信じている自分がいる事も知っている。
 小さくても醜い心は、やはり知られてしまう。こんな心を私は露呈していたのだ。
 もう……嫌だ。こんな心いらない。
 私は頭の中が真っ白になった。目が虚ろになって、頭がぼやけて、何も考えられない。
 このまま、しんじゃいたい。
 あ、なんか大輔が叫んでる。ごめんね、大輔……。私じゃ、無理だったよ。
 ごめんね……ごめんなさい。
 私は自分の体がゆっくり消えていくのを感じた。
 さよなら、大輔。
 抱かれた大輔の腕がすごく心地よかったのに。


 闇が広がる世界。ここが時空の狭間だということはすぐに分かった。
 ゆっくりと目を開ける。やはりそこは闇でしか存在し得ない場所だった。
 期待なんかはしていない。ここで私は運命を受け止めなければならないのだから。
「もう、いいのかな? まだ時間はあったようだけど」
 厚志君がシナリオ通りとでもいうように言った。全てを分かっていたように。
 厚志君は私が厚志君を好きだということを知っていたのかもしれない。だから彼は私に好かれるような容姿や性格、特徴などを……ってそれは深読みしすぎか。もう終わったことだもんね。
「うん。大輔はこんな私に幻滅したと思う。あいつは私なんかよりもっと良い人が見つかるよ」
 大輔……お別れも言えなかった。
 私はこのまま厚志君に連れていかれちゃうの?
 やっぱりこのまま行くのは嫌だ。
 もう会えないなんて、寂しすぎるよ。
 会えなくなるって分かって、初めて私は大輔を恋しく思った。
 私は馬鹿だけど、本当にどうしようもない人間だけど、
 お願い、もう一度だけ……
 大輔っ――!
「さぁ、そろそろ行こうか。僕達の新しい……なっ!?」
 厚志君が初めて驚いた声をあげる。
 私は祈っていた。ただ、ただ祈った。
 もう後悔はしたくない。生まれた世界がどうであれ、私は自分の道を歩んでいきたい。
 自分の進む道を共に歩いていきたい。
 だからこの想いが罪だとしても、私は喜んで罰を受けるんだ。
 頬へ涙が伝う。これは嬉し涙。私は幸せ者なのだ。私を愛する人がいて、私が愛してもいい人がいる。
 だから……だから。
 この想いを迷わずあの人の元へ――
 

 届いて!
 

 その時――この世界に光が宿った。

 私は涙が止まらなかった。
 そこには、私の大好きなあの人がいたから。
「大輔!」
 私は今度こそその愛しい人の名前を呼んだ。


「なぜだ……、なぜ、君がここにいる?」
 厚志君が焦った顔を見せながら、しかしいつのまにか口調は物静かだ。荒げた様子もない。
「わからない。さっき柚栗が消えていくのを見て、どうしていいかわからなくて、無我夢中だったからな」
「ここは僕達異邦人のみが出入りできる時空の……まさか、君も!?」
 その言葉に私は驚いて大輔を見た。厚志君はこの場所は時空を越える事ができる者しか入れないといった。では、なぜ大輔がここにいるか。答えは一つしかない。
「意味がさっぱり分からんが、とにかく俺は普通の人間じゃないってことだな」
 驚いた様子もなく、大輔は答える。
「その通り。君も柚栗君みたいなタイプだな。記憶を失ったまま君達の世界で生活していた。ふふ、面白いことになったな。まだ同族がいるとはね」
「どうでもいいが、柚栗をここまで連れてきたことは許してやるから早くここから出しやがれ」
「なぜだ、なぜ君もそんな事を言う? 僕達は異邦人なんだ。異邦人は異邦人なりの生き方ってものがあるだろう?」
 厚志君は微笑を浮かべる。
 そして大輔がここで初めて怒りの表情を露にした。
「ふざけんな! 俺達は普通に生きてきたんだ。今更、こんな所で生きてたまるかよ!」
「……もうすぐ死ぬ、と言ってもかい?」
「なっ!?」
 明らかな動揺。厚志君はその瞬間を狙った。
 素早い加速で大輔に近づき、右の一撃を放つ。
「ぐっ!」
「やるね」
 かろうじてこれを両腕でガードする大輔。そのまま二人は睨み合った。
「何で俺達が死ななきゃならないんだ」
「……そうだな、例えば地球人が火星に行ったとしよう。その環境に適して生きている人間が、環境や気温が全く違うところへ行ったらどうなる?」
 いきなりの厚志君の問いに、すぐには答えられなかった。
「生きてはいけないよね、普通。それと同じさ。僕達は地球人じゃない」
「ち、違……」
「同じさ。やはり君は柚栗君と同じ事をいうなぁ」 
 厚志君が笑いながら、二人は距離を置きながら対峙する。
「体に疲労の変化などないのは確かだ。しかし、君達はそのままの生活を行うと間違いなく死ぬ、確実にね。そんな君達をこのまま死なせるわけにはいかないんだよ。だからそこにいる柚栗君に条件を出してやったのさ。諦めさせるためにね。だけど失敗したのに柚栗君は諦めていなかった」
 私は少し恥ずかしくなった。もしかして祈っているのを見られていたのか。慌てて涙を拭う。
 と、その時大輔は思いがけないことを言った。
「その条件……ってのはもしかしてキスのことか?」
「そうだよ。君はそれを拒否した。柚栗君は条件を満たせなかったわけだ」
「それじゃあ、俺にも条件を出してくれ。俺にもそれくらいの権利はあるだろう」
 大輔のセリフに厚志君はへぇ、とまた面白そうな表情をする。
「くくく、君達は面白いなぁ。そうだな、それじゃあ僕との決闘はどうだい?」
 これまた突飛なセリフに、私は目を丸くした。
 決闘、つまりこの流れからしてここでの決闘とは死闘、を指すものだと思う。
 これを聞いて大輔は
「上等だ! ぶっ殺してやるぜ」
 両者の合意は整った。

 
 ルールは武器なしで何でもありの、総合格闘技のようなもの。
 違うのは動ける範囲は無制限ってことと、ここでの重力が地球とは結構軽いそうで、本気でジャンプしたら普通の人の三倍は飛べるらしい。
 私も飛んでみたがこれは凄い。走り幅跳びで楽勝で世界新記録を出せそうだ。
 飛んでみたところで、二人の様子を伺う。辺りは闇がなくなったせいか、見渡すのは容易だ。しかし、何もないのには変わりはない。
 つまり死角などはあてにできないということだ。真っ向勝負。強い者が勝つ、という簡単なものである。
 大輔に勝って欲しい。
 私は再び祈り始めた。大輔と一緒に元の世界へ戻るために。
「さて、始めようか」
「御託はいいからとっとときやがれ!」
「それじゃ、いくよ」
 言うが早いが、厚志君は大輔に肉薄していた。さすがに焦ったのか、後ろへと下がろうとしたが、厚志君は逃さない。
 両腕で大輔の腰辺りに巻き付け、思いっきりジャンプした。
 人を抱えているのに、これほどまでに飛べるのだろうか。私の身長の2倍以上は飛びあがり、そのまま体を反転させる。
 大輔の頭を叩きつける気だ!
 しかし私は見ていることしかできず、何も言う事すらできなかった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 両腕も掴まれているため、大輔は身動きすらとれなかった。
 叫ぶことしか出来ないまま、大輔はそのまま何もない地面へと落下し……
 ドゴォッ!
 凄まじい音が辺りに響いた。
「だ、大輔!!」
 見れば、大輔が白目を剥いて頭を強く打っている。今の技をまともに、あの高さから食らったのだ。普通の人間では生きてはいまい。
 技をかけた厚志君が大輔が動かないことを確認して、技を解き、私の所へ歩いてくる。
「あっけなかったな。もうちょっと楽しませてくれると思ったんだけ……ぐぁっ!」
 大きなリアクションで前のめりに倒れる厚志君。見ると、倒れていた大輔がいつの間にか立ち上がり、ハイキックを厚志君の頭に蹴りつけたのだ。
「ぐぁ……いてぇ。マジでいてぇ」
 頭を押さえながら、本気で痛そうに言う大輔。
 おそらく重力が軽い分、技の威力も激減したのだろう。
 ならば先ほどの大輔の攻撃も……
「いたた……。やるね。まさか死んでるとは思わなかったけど、気を失わないとは」
「伊達にバスケ一筋じゃねぇんだよ!」
 いや、自慢になってないって。
「待ってろよ、柚栗! とっとと片付けてやるから」
「ふん、やれるもんなら……うがっ!」
 速いっ!
 相手に肉薄するまでの速さは、厚志君より間違いなく上だ。その速さで近づき、相手を殴り殴ってぶん殴る。もちろん反撃の隙は与えない。
 右ストレート、左ストレートが面白いように決まる。さすがにこれだけ殴れば、威力は激減していると言っても効いてはいるはずだ。
 地面と思われるところには厚志君の顔から流れたおびただしい血が辺りに飛散している。
「おらぁっ!」
 右ストレートがボディに炸裂。厚志君は口から血を吹き出し、膝から倒れる。
「はぁはぁ……、どうだ? まだやるか」
 息を荒らしている大輔が、厚志君に問う。
 厚志君は、うつむいた顔をゆっくりと上げ、いきなりとんでもないことを言い出した。
「……お、お願いだ。いかないでくれ……」
 厚志君は血に混じった涙を流す。命乞いをするような真似で、私達に話しかけた。
「僕は、寂しかった。一人で、こんな所で何千年も生きて……誰もいない。孤独だったんだ。頼む、頼むよ。僕を一人にしないでくれ」
 それまで敵意剥き出しだった大輔も、この言葉には黙って耳を傾けた。
 そこにいたのは親に捨てられた一人の可哀想な男の子のようだった。
「僕はこれだけ生きているにも関わらず、死が怖い。情けないと思うかい? でも仕方ないんだ、外に出るのが怖いんだ。だから柚栗君を見つけた時だって、外に出るのにはかなりの勇気は必要だった。平静を装ってはいたけどね。でも、僕は臆病者なんだ。そして寂しがり屋でもある。我が侭だと思うかい? その通りだよ。でも、僕はそんな我が侭を叶える事ができなかった」
 悲痛な告白に、私も大輔も言葉を失う。
 そうか、厚志君はずっとこの時空の狭間で育ってきたんだ。親も友人もいないこの場所で。
 寂しい思いをしただろう。ずっと泣きたかっただろう。
 今まで溜まっていたものが溢れ出したかのように厚志君はただ、泣いていた。
 それは子供のように……私は胸が苦しくなった。
「だが……俺達は」
 呟くように、大輔が言う。
「分かってる。君達の世界に戻りたいって気持ちは強すぎるほど分かってる。それに僕を倒したんだ、約束は守るよ」
「待って!」
 私はここにきてやっと口を開いた。
「厚志君、私達と一緒に戻らない? 皆死ぬんでしょ? 一緒に死ねば怖くなんてないよ」
 自分でもすごいむちゃくちゃな理屈だと思うが、このまま彼をこのまま残しておくのはたまらなく私を嫌悪の塊にするだろう。
「そうだ。それが良い。皆で戻って皆で死んだらいいじゃん」
 大輔も無理矢理明るく話している。言ってることはまったくの荒唐無稽だ。しかし、こういう事でしか今の彼に言うべき言葉が見つからなかった。
「ははは、ありがとう。でもそれは無理な話だ」
「どうして? 一緒に戻ったらいいじゃない!」
「だって」
 厚志君はゆっくりと立ち上がり、私達から離れるように歩いていく。
「だって……僕はここで死ぬんだから」
 瞬間、バチッと光が一閃した。
 辺りは更に濃い光に包まれた。
 煙のようなものが広がり、大輔も厚志君の姿も見えない。それより厚志君、ここで死ぬって……
「柚栗! どこだ!?」
 大輔の声。私はそれに応え、大輔を安心させた。
 大輔に近づいていき、手を離さないように絡み合わせる。
 その時、頭上の遥か遠くに円形の光に包まれた何かが存在していた。
 その中にいるのは――厚志君!?
「僕はね、本当は簡単に大輔君を殺すことだってできたんだ。こうやってね」
 厚志君が右手を軽く振ると、遥か遠くから爆発音と衝撃がきた。
 まさか、これを厚志君がやったというのか?
 隣にいる大輔の姿は見えないが、おそらく驚いているに違いない。私ももちろん驚いていた。
 ファンタジーなどで出てくる『魔法』とかいうやつだろうか。しかし厚志君はそんな事は何一つ言わないで、
「でも、僕は君を殺さなかった。君達には生きていてほしかったから」
 厚志君は悲しそうな顔をしながら更に続きを喋り出す。
「僕は死ぬのは怖い。だけど、同じ異邦人に殺されるのならいいなと思っていた。でも、僕と同じ種族が死ぬのどうしても見逃せなかったんだ。だから柚栗君、僕は君を連れてきた。そして本当は大輔君が異邦人っていう事実を知って君にあんな条件を出したんだよ。二人とも連れてくるためにね。でも、無理だった。君達は元の世界に干渉しすぎて、この世界ではまず生きていけないと思う。。無理矢理連れてきてもよかったけど、やっぱり僕は……そんな事は好きじゃない。それに君達はもう、心で結ばれている。こんな所では幸せになんてなれないんだよ」
 厚志君は、全てをお見通しだったのだ。だから私を試すような条件を言ったりして。
 ずっと天涯孤独で生き続けた厚志君だけど、やっぱり私は……。
「ははは、こういう事言ったらなんだか同情を誘ってるみたいで嫌だね。だから君達はちゃんと元の世界に戻す。そして今まで付き合ってくれたお詫びとして僕の命を君達にささげよう。僕の命があれば、後、数十年は生きられるはずだ。それで、お互いに幸せを営んでほしい」
「「なっ――!?」」
 私と大輔の声が重なった。
 厚志君は私達のために命をかけると言っているのだ。
 そんな馬鹿なことがあってたまるか。
「駄目だよ! そんなこと」
「もう決めたんだ。君達になら、この命ささげてもいいって」
「やめろぉっ! 厚志!」
 誰かが間違っているわけではない。でも、こんな結末で終わってしまうなんて……私は嫌だ!
「楽しかった。そして、ありがとう」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 私達は大きな光に包まれ――
 意識は混濁とした中へと投じられていった。
 ……厚志君、私の初恋の人。
 ごめんなさい。
 私達は絡まった手が解かれることがないまま、溶けるように消えていった。


「う……ん」
 何度目かの意識消失ではあるが、これで最後だろうと理解していた。
 私は目を開ける。隣には大輔も意識消失から目を覚ましたようである。
 さっきまでは肩を抱かれていたのに、今では手をつないでいる。しかもベンチに座ってだ。
 今は夕陽が赤く染まった頃合のいい空が見える。やはり意識が飛ぶ前と時間が変わっていない。
 公園には誰もいない。さっきと同じシチュエーションである。当たり前なのだが。
「厚志は本当に俺達を救ってくれたのか」
「たぶん」
 私は実感していた。確かに厚志君はあの時、私達に命を捧げると言った。あの時の言葉は嘘じゃない。絶対だと確信できる
 そして今、私達の身体には厚志君が存在しているというのだろう。
 私の好きだった厚志君は、今この胸の中で眠っている。
 何一つしてあげられなかったけど、きっと厚志君は私達と出会えて嬉しかったんだと思う。
「皮肉だよね」
「あぁ。だから、俺達が厚志の分まで生きてやらないとな。この世界をいっぱい見せてやるんだ」
「そうだね」
 私達は笑った。この世界には楽しいことや嬉しいこと、悲しいことや面白いことがいっぱいある。私達が見せる世界が厚志君をきっと幸せにしてくれると私は思っている。
 だから泣かないで、……笑っていてね。
 そして私達はあの時果たせなかった契りを今、いとも自然に交わそうとしていた。
 もう迷う事はない。私はこの人……吉村大輔が大好きなんだから。
 やがて夕陽が傾くように誘われた二人は、
 先の同じ空の下で初めてのキスを交わした。
 

 エピローグ

 それから、私達は本当の恋人同士になった。心から愛し合い、心から好きだと言える相手。
 厚志君はというと、その存在自体が最初からなかったかのように私達以外の人間からは忘れ去られてしまっていた。
 悲しかったけど、私達は決して彼のことを忘れない。
 共に生き続けると誓ったのだから。
 私と大輔は今を生きている。未来より、過去より現在という時間を一生懸命生き続ける事が私達のできることだし、厚志君の願いでもある。
 だから私達は笑っている。悲しいことなんてないから。
 九月に入ってもう最後の週なのになぜかまだまだセミはうるさく鳴いていた。
 まるで8月の最後の日を思い出させるかのように……。

 空はまだ暑かった。


END




戻る