『救い』

 鬱陶しいけど、気になる奴がいる。

 十数年間この町に育ってきた中で、俺の興味をこんなにも引く奴がいるとは思いもよらなかった。

 出逢った時はただの本当に鬱陶しいガキだった。

 チビで年下でいつも俺の周りにくっついてくる虫みたいなものだった。

 俺がいくら追い返そうとしても磁石のようにくっついて離れない。うざったい存在だった。

 何回か冗談で殴ったが、ものともせず、一度本気で頭を殴ったことがあるが、その時は思いきり泣いた。

 かなり痛かったのだろうと思う。それでも、あいつは俺の傍にいた。

 俺はガキが嫌いだ。

 いつもギャーギャー騒いでいるだけで、あいつらは何をしようとしているんだ?

 いっそのこと殺したら静かになるのではないかと思ったこともある。

 ガキは家でゲームでもしていればいいのだ。だってそうだろ? 今の世の中、外で遊んでいるガキの方が珍しいものだ。

 俺がガキの頃、家の躾が厳しくて親父に何度もぶたれ、殴られた記憶がある。当時の俺は何もできない子供だった。親の言うことを聞くだけの小さな子供でしかなかった。

 だから今のガキを見ているとムシャクシャする。お前らはどうしてそんなに裕福に遊んでいられるんだ?

 ただの逆恨みだってことは分かっている。だが、こうでも言っておかないと俺の怒りが収まらない。

 俺が17歳になったとき、親父を殴り飛ばした。

 今までの恨みを果たすためだけに、手が疲れるまで殴った。

 親父の顔は悲惨なほど変化していた。そして俺の手も気づかないうちにボロボロになっていた。

 その時、俺は笑っていた。小さな子供の時に誓った復讐を今、果たせたのだから。ただ、それだけ達成できたことを心から喜んでいた。だが、それだけだった。

 俺は家から追い出され、路頭をさまようことになった。

 身よりもいない。友達もいない。

 学校には行っていたが、俺はどんなときでも妙に冷静で人を寄せ付けない存在となっていた。それ故、友達もできなかった。

 家を追い出されては学校にも行くことはできない。

 ただ、いつもなんとなく休んでいく公園へ立ち寄った。

 やかましい喧騒を立てるガキどもが俺の耳に障る。

 こっちは静かにいたいだけなんだ。

 早く家へ帰ったほうが身のためだぞ。

 ……

 ……そうか、お前たちはよっぽど俺に殺されたいらしいな。

 俺はゆっくりと立ち上がってふらり、ふらりと夢遊病者のようにガキどもへと近づく。

 お前たちがいけないんだ。お前たちが俺の安息の時を邪魔するから。

 殺意を露にしてて、俺はガキへ歩いていく。

 

ザッ、ザッ――

 俺がぎろりと睨みを利かせて顔をあげるとその時、うるさかったこの場所が一瞬のうちに……

 

ギュッ

 その時、俺の服の裾を誰かが掴んだ。

 感じるほどの重みに気づいた俺は、その違和感の方へ顔を向けた。

 

 ガキが俺の服をつかんでいた。

 だが、そのガキは他のガキと違っていた。

 それは、女のガキだということ。


「離せ」

 俺は脅すように言った。そうすればすぐに脅えて逃げるかと思ったから。

 周りにいるガキどもがいつの間にかいなくなっていた。逃げ出したのだろう。ガキは生意気だが、やはり怖いものには逃げ出すものだ。俺につかんでいるこのガキだってすぐにどこかへ去ってしまうに違いない。

「どうして?」

 どうして? とは意外だった。だが、それだけだ。

「俺はガキが嫌いなんだよ」

 早くどこかへ行って欲しかった。これ以上、話すのも億劫になってしまっていた。

 このガキを追い出したら寝る。それだけを思っていた。

 少し涙ぐみながら、こいつはこう言った。

「じゃあ、わたしが大人になったら嫌いにならないでいてくれる?」

 泣きそうな顔で、ガキが何を言ってやがるんだ。

 俺は頭にきて、遠慮なしに頭へ拳骨をぶち込んだ。

 思いきり泣いた。大声を出して泣いていた。

 これじゃ俺が悪い奴じゃないか。

 通りかかった主婦とかが嫌な目をしながら横を通り過ぎていく。これでは誰が見ても俺がこいつをいじめている様子にしか見えない。

 どうしようか珍しく狼狽しているうちに、俺は気づいた。

 俺に殴られても、このガキは俺の服をつかんで逃げ出さずにいた。

 変な奴だ、と俺は思った。

 それからしばらくして、こいつは泣き止んだ。

 ひっくひっくと小さな声をあげながら、こいつは何もしゃべらなかった。

 何かしゃべると殴られるとでも思ったのだろうか。それなら早く帰ればいいのに。というか、早く服から手を離せと思う。

 だが、そんな事を言ったところで無駄のような気もしてきた。

 だから早く家へ帰らせるために、俺は尋ねた。

「お前、家は?」

 俺が送ってやる以外に選択肢はないものかと、答えが返ってくるまでに模索する。どう考えてもこの状況では俺が送ってやる以外に手はない。もう一回殴っても同じような気がするし、仮にも女だ。男みたいに殺すという概念が浮かび上がってこない。

 ……って俺は一体何を思っているんだ。こんなガキ相手に。まだランドセルを背負っていそうなガキに女はないだろうと思う。ふざけた奴だ。くそ、混乱しているな、俺。

 ペースを乱されたが、俺は待つ。早く家を教えてもらって、俺が送ってやってそれで終わりだ。また会うかもしれないから、送ったらここから離れよう。死ぬまでにどこか遠い所へ旅でもしようかな。

「…………い」

 俺が思考に耽っているうちに、答えを言ったのか。

 わずかに聞こえたが、まるで意味を成さない。

「ん? 悪い。もう一度言ってくれ」

 そう促した。

「……家、ない」

 こいつはどうしてそんな困らせるような事をいうのか。

 驚きとかそんなものはまるで感じなかった。哀れみや同情の念など一切ない。こいつも俺と同じだと、そう確信しただけだ。

「そうか」

 だから俺はその一言しか言わなかった。

 こいつも俺と同じく、親に捨てられたのだ。

 このガキは最初から俺と同じだと気づいていたからあんな行動ができたんだ。しかし、俺はこいつがここまで言ってから初めて気づいてしまった。

 恥ずかしいと思う。こんなガキにそんな感情を抱くことになろうとは、俺もまだまだだな。

 しかし、こいつが俺と同じだからといって俺がガキを嫌いであることに変わりはない。まして互いの傷を舐めあうようなそんな真似はしない。俺は一人で生きるのだ。

「頑張って生きろよ」

 だから俺はそれだけ言って、服から無理やり手を離させる。

「あっ……」

 おもちゃを取られた赤ん坊のように、泣きそうな、そして無垢な瞳でこっちを見ていた。

 俺はそれを見たとき、なぜか動悸が速くなった気がした。

 そして、俺はその瞳から目を逸らせないでいることに気づいた。

 

 時が止まる。

 

 そして、俺がわずかに後ずさると、そのガキは泣き出した。

 俺が殴った時よりも大きな声で、俺に訴える。

 

動けなかった。

 そのまま後ろを向いて、その場を立ち去ればいいのに、俺にはそれができなかった。

 あるいは、今泣いているガキを殺してでも泣くのを止めさせればそれで終わるはずだった。

 だが、俺はやらなかった。

 できなかったのだ。

 どうしてだろうか。

 こいつと俺はここで初めて出会い、そしてただ別れるだけの関係なのに。

 泣いたからじゃない、それでは同情したものと同じだ。こいつにとってもそれは失礼だと思う。こんなガキでも人間であることには変わりないから。

 

 人間であるから、近づけば良いんじゃないか?

 そんな考えが一瞬、頭をよぎった。

 ただ、その考えを一笑に捨てようと思わなかった。

 俺はこの世を追い出された人間だ。

 楽しいことも生きる糧もない。

 ただ、こいつとならそれが見つかるかもしれない、と泣いている顔を見て、思ったのだ。

 未だ泣き続けているこいつに、俺は近づいた。

 まるでそれを期待していたかのように、こいつは泣くのを止めた。

 潤んだ瞳で俺を見上げる。かなりの身長の差があったが、俺はその瞳にまっすぐから見つめ返した。

 

 しばらく訪れる静寂。

 俺は手を握り、振り上げる。

 また俺に殴られると思ったのか、こいつは頭を両手で覆った。


 どこかへ逃げるだけで良いのに、それができないほど誰かにすがりたかったのか?

 

 俺は握っていた拳を緩め、それをこいつの頭の上へ軽く乗せた。

 予想外だったのか、こいつは目を見開き、俺を見ている。

 こんなにも正直で汚れを知らないガキが、こんなにも早く親から離れることになるなんて、俺はどこにぶつけるでもない怒りを感じた。

 俺ならまだいい。一通りの世間を知ったつもりだし、大抵の泥沼は歩んできたつもりだ。

 だが、こいつはこんなにも小さい。そして何も知らない。

 この世で生きていくには、あまりにも何もかもが小さすぎる。

 やっぱり俺はこいつを哀れんでいたのかもしれない。

 でも、だからこそ俺はこうやってこいつの目の前にいる。

 俺はこいつの頭を撫でて、一言だけ言った。

「お前は、何がしたい?」

 しばらくはこいつと一緒にいようと思う。ガキが嫌いなはずの俺が、こんな事を思うなんて、自分自身驚きだし、そしてこれは俺が興味のあることでもあるから、きっとしばらくは生きる楽しみになるかと思うのだ。

 俺は撫でていた手をあげて、こいつの言葉を聞いた。

「もっと撫でてほしい……」

 少し頬を赤らませて、そう言った。

 俺はすかさず、今度はかなりの手加減を入れてチョップをかました。

「いたい……」

 また泣きそうな顔になる。

 俺はもしかしたらこいつを殴りたいだけなのかもしれない。

 それはそれでまずい気がする。

「……えへへ」

 そして、こいつは泣かずに、笑っていた。

 嬉しそうに、誰かに救いの手が届いたように。




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